彼と私の葬式

彼が亡くなったのは、先日のことだが、彼の中で私が死んだのは、きっと彼の亡くなる何十年も前のことだろう。
それは私の小学校6年生の7月16日。
私が正真正銘のいじめられっこになった記念すべき日だ。

その日まで私をいじめる者は、直接的傍観的かかわらずクラスメート41人の中、私以外の39人だった。
その中でただ一人。
その日まで私を、いじめるなと言い続けたのは、彼だった。

私のいじめられていた原因はもう、よく覚えていない。
彼が守ってくれた理由もよくわからなかったが、彼にもいじめは集中したことは思い出せる。
その彼が私にとって向こう側になる7月16日。
その日彼は、私よりひどいいじめにあった。
3時間目のプールの授業が終わったあと、彼は裸にされて女子たちが着替えている女子更衣室に閉じ込められたのだ。
女子の悲鳴が聞こえた。
扉は男子数人によって封じられ彼がどんなにあがこうと開くことはなかった。
先生が来たとき、彼は壁の隅に丸まって動かなかったという。
私は、彼が裸にされるときも、女子更衣室に入れられるときも、呆然と見ていただけだった。
それまで彼がいじめられていたどのタイミングもそうだった。
彼がいじめられていたときだけは、自分がいじめられっこであることを忘れられた。
ひどく平和だった。

実行犯たちにどの程度の罰がくだったのかは私にははかり知れないが、彼がその日から私に関わらなくなったのは事実だ。
私を守る人はいなくなった。
いつしかいじめはクラス全体のものになった。
私はクラスからいなくなったものとして扱われた。

彼は、いつのまにか、私を見なくなり、そして。

クラスメートになった。

彼の中でそのとき僕は死んだのだろう。
死んだことにすればよい何かが彼の中に浸透したのだろう。

その日からそのクラスは40人で動き出した。

彼はその数十年後、病気で死ぬ。
地元で訃報をうけとり、私は小学校以来会っていない彼の姿を見に行った。

彼は死んでいたが、結局私を死んだことにしたまま、死んでいったのだろう。
私にのちの人生があったことを知らず、私を忘れたのかもしれない。

焼香の煙をかぎながら、私は「私にとって」の彼は生きていたのだろうかと、ふと考えた。

私と彼のつながりが切れ、彼が私を死んだことにしたとき、私の中の彼は生きていたのだろうか。

…きっとあの7月16日、私は40人目のクラスメートを殺したのだろう。
だから私は一人になった。
彼は私を殺したのではなく、私自身が彼に私を殺させたのだろう。
そして彼を殺していた。

しかし驚くことに、私の中の彼は、この回想と焼香によって蘇った。
彼についての記憶が私の中を駆け巡り、回想の中で彼は、いつも「いじめるな」と周りに向かって言っていた。
そう、焼香と年老いた写真の遠くで彼はまだ私を守り、うちのめされ、そして私から離れていった。
7月16日に私を殺し、私が殺した彼が、いま、ありありと私の中で生きているのだ。

私は泣いた。
彼を遠くで見ていた私は、泣いた。
私の中で息を吹き返した彼を感じながら、棺におさまった彼を見つめた私は泣いていた。

どんなに泣いても彼の中の私が生き返ることはないのだ。

私は、まるでこの葬式が私自身のものに見えて、ただただ泣いていた。

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